説教クサい話かも知んない。

なんというか、語りかけるような口調になってたら、勘弁な。
どっちかというと、アレだ。応答に近い性格のモノ。
応答的な意味合いのモノではあるけど、それ以上に、おいらの考え方を表現するモノでもあるから、折るまでもないかな。

説教臭かったら勘弁な。

いい加減年食ってきてるもんだから、ゆゆ様のように「いやいや妖夢」って感じに言ってしまうのかも知れんけど。

さてと。本題。
イメージできていないから、って一刀両断だったけど、もう一つの見方もあるのよ?
イメージはあるけれども、軸になるモノが見えていない場合、ってのは……
そうじゃん。
その軸になるイメージが見えてない、つまり、できてないってことなんだよ。(汗)


けど、まぁ、そこで止まるのもどうかと思うのよ。

習作ってあるけど、これって、その軸になるイメージを掴む練習のために作る作品のことなんだし。
結局何が言いたいかって言えば、皆相応に習作を積み重ねているんじゃないかな、ってこと。


俺の場合は、『Runner』シリーズとか、小咄カテゴリーなんかが、それに相当する……のかな?
けど、本来、「習作」と言うモノは、自分がイメージを固めるためにかくモノであって、他人に見せることを前提としていないはずなんで、「習作」と呼んではならないのかも知れないけど。

そうそう。一番大事なこと。

「真面目にかけば破綻するというのはとどのつまり何もイメージできていない、かけていないと言う事だ。」
個人的なことな。
最終的に破綻する結果になったとしても、その衝動には、引き金となるイメージが生まれているはずなのよ。まぁ、『イメージ』と呼ぶのもおこがましい『種』と呼ぶべき程度のモノかも知れないけどさ。
けど、その『種』がなきゃ、何も出来なくなるんよ?
そうだねぇ。「かけてない」と断罪して終わっちゃうより、するより、「かくための機が熟していない種」を育てることを考えるのも悪くないんじゃね?
って、俺は思うのよ。

それに、破綻させることは、自分の反省のためにも必要な場合があるから、「破綻した」と思った瞬間に止めるんじゃなくて、「完全に破綻させること」も必要だろうしね。

俺は、どうなのかって?
戯言の定期更新かけてるときに、破綻した枝(つまり没原稿)を幾つ作ったことか(笑)。